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2008年04月18日

山本五十六

本当にかっこいい生き方をした人だと思います。


明治17年(1884年)、新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。血液型はB型。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた(ちなみに、母親も45歳と高齢だった)。当時のフルネームは高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業後、明治34年(1901年)に海軍兵学校に次席入学。

明治37年(1904年)、海軍兵学校を卒業。席次は7番。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。

大正4年(1915年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する(→「山本家の相続」の節を参照)。以後山本五十六を名乗る。大正5年(1916年)、海軍大学校を卒業。

海軍次官を経て、昭和14年(1939年)8月30日、 中将の山本は、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。

また国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の首相・近衛文麿に連合艦隊の戦争準備状況を聞かれた際、「それは是非やれと言われれば初め半年や一年は随分暴れてご覧に入れます。しかしながら、2年、3年となれば全く確信は持てません」[1]と発言している。この発言は、国力差の見地で言われたと伝わっているが、本人が定年退職を1年後に控えているため、自分が指揮をとれば戦争に勝てるという意味であったとの説もある。

開戦決定以後は短期決着のため、特に航空機に力を入れる。その結果、真珠湾攻撃に始まる、大東亜戦争初期は日本軍を有利に展開させ、国内では英雄として扱われる。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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